バリアフリー2022に参加し、神戸学院大学総合リハビリテーション学部教授の備酒伸彦先生の『生きるを支えるケア~これからの高齢者ケアを考える~』を聴き、理学療法士として自立支援とリハビリテーションをとても考えさせられました
今回は、講演の内容を振り返ると同時に維持期・生活期で働く理学療法士の1人として感じた事をまとめておこうと思います
リハビリテーションに大切なのはキッカケ
今回の講演テーマは『生きるを支えるケア』
要するに『その人らしい生き方をどう支えていくのか?』という内容だったのですが、それこそがリハビリテーションだと私は考えています
一般的にはリハビリ=機能回復訓練というイメージが浸透してしまっていますが、機能回復訓練はリハビリテーション(その人らしい生活)を実現する為の1つのツールでしかないんですよね
当日の備酒先生のお言葉をお借りするのであれば
『病気へのケアだけではなく、人へのケアも出来ていますか?』
要するに機能障害を含む病気に対するケアも大切ですが、環境調整含む人へのケアも出来ていますか?という問いかけだったのではないかと個人的には考えています
理学療法士としてリハビリテーションとは何かを考えてみたブログは↓
ガラス1枚の入れ替えが動き出すキッカケになった高齢女性
講演の中では2人の高齢者が紹介されていました
1人は左側ばかり向いている高齢の女性
ふとした時にご家族が高齢女性の右側にあったすりガラスの1枚を入れ替えて下さり、外が見れる様になりました
『反対側向いて外見ますか?』と本人に確認すると『やってみたい』という事になり、理学療法を実施した結果、窓側に起きて座れる様になり、それだけに留まらず、自分で窓を開けて外の景色を見る様になったそうです
高齢女性がいる事を知った地域住民は高齢女性の下を訪れる様になり、自然とお菓子の量が増えていったのですが(地域住民がお菓子をくれる)高齢女性は増えたお菓子を近所の子供達に配る様になったそうです
すりガラスを1枚入れ替えただけで、起きて座れる様になり、地域住民や子供達との社会的交流が生まれ、楽しみが出来た
機能回復訓練を一生懸命頑張っていれば同じ様に生活は変化したのでしょうか?
正解は誰にもわかりませんが、例え機能障害は改善しても、すりガラスが以前のままでは『起きてみよう』とか『外が見たい』といった行動には繋がらなかった可能性はありますよね
牛小屋が動き出すキッカケになった高齢男性
もう1人は長年但馬牛のお世話をして来た高齢の男性
脳卒中になり、何とか杖歩行までは出来る様になったものの
『牛の世話が出来ないのであれば生きてる値打ちはない』
と意欲が持てず、寝たきりの日々が続いたそうです
備酒先生は多職種と連携して環境を整え、高齢の男性にこう伝えたそうです
『牛小屋行きませんか?』
その言葉に高齢男性は起き上がり、車椅子に乗り、牛小屋に着くと自ら立ち上がり、柵を持ちながら、思う様には動かない麻痺側の手で牛40頭の頭を叩かれたそうです
その後の訪問リハは毎回牛小屋に行く事
その3ヶ月後にはヘルパー見守りの下で入浴出来るまでに回復され、人生を終える時まで牛との生活を楽しまれていたそうです
理学療法士としての技術よりも大切な事
この2人の高齢者の話を聴き、感じた事は
リハビリテーション実現に大切なのは『キッカケ』だという事
理学療法士として技術(手技)を高めていく努力は大切な事だと思います
ですが、少なくとも紹介した2人に関しては『外が見れる環境』と『牛小屋』というキッカケがなければ動き出す可能性は極めて低かったのではないでしょうか?
動き出すキッカケがあってこそ療法士の技術がより活きて来るのではないかと私は考えています
理学療法士として改めて情報収集の重要性も感じましたし、やる気がないからといって諦めるのではなく、その人が動き出すキッカケを模索し続けられる理学療法士でありたいものですね
毎回訪問リハで牛小屋に行く支援をする理学療法士
価値観は人それぞれであり、正解はありませんが、男性にとってその時間が大切であり、生きがいに感じられるのであれば、私は『リハビリテーション』だと思いますし、そういった個別性に富んだ関わりをしていきたいですね
出来ない事を要求せず、出来る事は奪わない
これも備酒先生が講演の中で使われていた言葉であり、まさしく自立支援に繋がる考え方だと感じました
少しずつ自立支援に重きを置く事業所も増えて来ましたが、まだまだ圧倒的多くの通所系サービス等では利用者さんをもてなしているのではないでしょうか?
違う表現をするのであれば、様々な事情から出来る事まで奪っているんですよね
通所系サービスを利用する理由は各々違うとは思いますが、家族の介護負担軽減といった側面も大きいのではないでしょうか?
介護負担軽減という目的があるのであれば、少なくとも身体機能を維持・向上する必要があると考えます
では身体機能の維持・向上を目指す中で出来る事までサービス提供者側がしてしまう事は本末転倒になってしまうのではないでしょうか?
多職種で出来る事を評価し、出来る事はして頂く、役割を見つける事が本当の意味の自立支援であり、結果として家族の介護負担の軽減にも繋がっていくのではないでしょうか?
では多くの事業所が出来る事まで奪ってしまう理由は何なのでしょうか?
時間的余裕がないというのもあるとは思いますが、1番は『リスクを少しでも減らしたい』からだと私は考えています
最近私が聞いた言葉の1つに『安心安全地獄』という言葉があります
転倒したらいけないので座ってて下さい
誤嚥のリスクがあるので、もう少し食べるのは控えましょう
こういった場面に医療介護従事者であれば、1度や2度は遭遇した事があるのではないでしょうか?
転倒を100%防ぐ方法があるとすれば、寝かせておくしかありません
ゼロリスクなんて事は基本的にはないんですよね
多くの人はノロウイルスになる可能性が0ではないのに牡蠣を食べますよね?
年間に多くの人が事故で亡くなっているのに、車に乗りますよね?
元気な内はリスクを自ら選択出来るのに、少し年齢を重ねて身体が弱るとリスクを排除される
それって何かおかしくないでしょうか?
リスクを取れという事ではなく、多職種で機能を評価した上で、ご本人とご家族のACP(アドバンスケアプランニング:人生会議)も踏まえて、どこまでのリスクを取れるのかを一緒に考える事が必要なのではないでしょうか?
ACPとリハビリテーションについて考えてみたブログは↓
出来る事、やりたい事を奪わない
取れるリスクを一緒に考える
ここを支援する事が自立支援であり、リハビリテーションではないかと私は考えています
食べるを考える
年齢を重ねても最後まで残る欲は『食欲』ではないでしょうか?
この食べるに関しても備酒先生の講演の中でとても考えさせられる場面がありました
デンマークの施設の食事が紹介されていたのですが、当たり前の様に子羊のロースト等が出て来るそうです
お肉がどうしてもダメな人は有料で魚料理が出て来たり、同じくお金を払えばワインも飲めるそうです
日本の施設では到底考えられないですよね
私はその人らしい生き方(リハビリテーション)を支援する上で選択肢がある事はとても大切な事だと考えています
日本でも自宅で過ごせてさえいれば、好きな時に好きな物を選択して食べる事が出来ますよね
でも病院や施設に1度入ってしまうと、選択の余地なく出て来た物を食べるしかなくなります
私は終末期の患者さんには例え、入院中であっても好きな物を食べて欲しいし、少しくらいお酒を飲んでもいいじゃないかと思います
だって、残りの時間が限られているのですから
少しでも後悔の少ない状態で最期の時を迎えて欲しいからです
終末期に理学療法士が出来る事は何なのかを考えてみたブログは↓
とはいえ、病院は病気を治す場所
100歩譲って、病院は致し方ないとはいえ、生活の場所である施設ではもう少し融通が利かないものでしょうか?
私の知り合いが運営する施設(老人ホーム)では利用者さんがカップラーメンを食べる日があるそうです
更に素敵だなと感じたのは好きなカップラーメンを選べる事
しつこい様ですが、選べる事が大切であり、それこそがリハビリテーションなんですよね
人間ですから和食よりもカップラーメンやカップ焼きそばが食べたい日だってある
家族が差し入れしてくれたから、今日の晩御飯は差し入れを食べる
月に何度かこういった日があっても良いのではないでしょうか?
自宅で生活している人が当たり前に出来る事を施設で月に1度や2度実施する事はそんなにワガママな事でしょうか?
最後に1つ問いかけさせて下さい
そんな制限だらけの施設に家族を入れたいと思いますか?
家族に自信を持って薦める事の出来る場所、いずれ年齢を重ねた時に自分達が安心して入りたいと思える場所を少しずつ作っていきませんか?
まとめ
今回はバリアフリー2022に参加し、その中でも非常に印象的だった備酒先生の講演内容を振り返りつつ、今一度自立支援とリハビリテーションについて考えてみました
特に自立支援における『出来る事は奪わない』と施設で『少しでも食べたい物を食べる』に関しては、まだまだ現場で実践するにあたりハードルは高いと感じています
とはいえ、数は少なくとも日本でも実現出来ている場所があるのも事実
ハナから『どうせ無理』と諦めるのではなく、多職種も巻き込みながら『どうすれば実現出来るのか』を考え続けていきたいと思います
それがその人らしい生活を支援する(リハビリテーション)理学療法士の仕事ではないでしょうか?
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